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◆この10年で何が変わったか

◆ 市場の変化、環境の変化

既にご案内したとおり、弊誌は創刊10周年を迎えた。正確に言えば「試作品」としての第一号は2001年5月7日号であった。そこに筆者は「リスク感覚」という一文を寄稿した。その中から一部抜粋しておきたい。

「現代ファイナンスは、新古典派経済学を隠れ蓑とすることで(途中略)アングロサクソン流の現実歪曲化の金融理論を正統としてきた。」「工学的に制御するという言葉に金融行政や経営者は弱いものである。だがシックス・シグマのような統計処理は、工場のように大数の法則が効く世界に有効な考え方であって、金融市場のようにカオス的振る舞いを見せる環境には有効ではないのである。」「欧米流金融理論の呪縛に囚われた人達は、盲目的に或いは強引にモデリングを推し進めたり高価なシステム作りに邁進したりしがちであるが、欧米大手金融機関が過去数年間のマーケットの暴風雨の中でどれだけの損失を被ってきたのか、冷静に計算すべきである。」

自分で言うのも変だが、いま読んでも決して古い警告ではないように思える。当時、市場リスクに続いて信用リスクの管理を数理的にモデリングしようと金融業界が涌いていたことへの、ささやかな抵抗論であった。大学で金融工学を教える先生が増え、金融機関でも統計的リスク管理への傾斜が進んでいった。BISも金融庁もこれを後押しした。だが、金融市場が行き着いた先は、2008年のリーマンショックであった。

久々に創刊号を眺めて、いったいこの10年間とは何だったのだろうか、と自問せざるを得なくなった。2001年の日本は、まだ不良債権問題が尾を引いていた頃である。2001年6月の日経平均は13,000円であった。その後2003年3月には8,000円を割り込み、2007年2月には18,000円台まで回復するが、2008年10月には7,000円を割れた。そしていま、10,000円すら手の届かない水準で低迷を続けている。この10年間の日経平均における収益率は、配当を含めても結局マイナスであった。

為替市場を眺めると、2001年当時はドル円120円台の時代である。因みにこの頃、人民元を語れる人はごく少数であった。10年経つと世界観は大きく変わるものだ。ドル円は2003年に135円まで上昇したがその後は100-120円のレンジとなり、2008年以降はドル安となって今年76.25円という史上最高値をつけたのである。大きなトレンドで見れば、為替は一貫してドル安の時代であったと言ってよい。

長期金利は0.4%から2.0%までミクロな座標で見ればそれなりに変動はしているが、大局的にいえば、1%前後という「不動金利」或いは「準固定金利」であったと言える。金利を飯のタネにしてきた身としては、まことに見るべきところの無い市場であった、というしかない。世界は大きく変わったのに国債は変わらない。逆に言えば、国債市場ばかり見ていると世界の大変動を見逃すことになったかもしれない、ということだ。

クレジットに関するこの10年間の金融視点としては、不良債権問題の解消、CDS市場の拡大と挫折、証券化の躓き、債権流動化の低迷などが挙げられる。更にクレジット・ビジネスに携わる人が減少したことも大きな特徴だろう。過去10年間でこの世界から離れていった筆者の知り合いも少なくないのである。

◆ ポスト・モダンの金融論

もっともこの10年間だけを抜き出して語るのは、やや中途半端な気がしている。金融史500年とまではいかないが、やはり100年くらいの金融史の中でこの10年がどんな位置を占めていたのかを探ってみるのも一興だろう。だが、残念ながらそういう分析は一朝一夕には無理である。

ここでは一つのヒントを差し出すだけにしておこう。それはここしばらく筆者が気になっている金融におけるポスト・モダンである。ポスト・モダンはフランソワ・リオタールが「ポスト・モダンの条件」において大きな物語の終焉として描いた「近代の後としての現代」論であることはご存知の方も多いだろう。もっとも、それらが論じられるのは哲学や建築、文学などの世界であって、資本主義にどっぷりつかった経済社会や金融市場はこの概念をほとんど無視し続けてきた。

それが流石に無視できなくなったのがこの10年ではないか、というのが筆者の推測である。但し、先に述べたようにこれは未だに直感的な推論の域を出るものではない。

簡単に私の考えを述べると、日米など先進国の資本主義社会は、まだ「モダン」の時代を脱していないということである。言い方を変えれば、経済や金融はいまだに近代を超克し得ていない、ということだ。廣松渉が1980年代に「近代の超克」として示した苛立ちは、いまだに現代の経済や金融の中にも受け継がれている。

その「モダン」とは、まさしくリオタールのいう「大きな物語」であり、アングロサクソンが作った負債立国的な経済成長のイデオロギーである。日本もそれに乗りかかろうとして結局それが出来ないと理解したのがこの10年間の結論であった、といえば言い過ぎだろうか。

1980-90年代の米国経済の成長と金融市場の急速な発展は、世界の憧れの的であった。筆者もそれを盲目的に信仰した時代があったことは、拙書の中で告白済みである。だがそれは、戦後の混乱時にソ連や北朝鮮の計画経済の優位性を信じた人々とどこが違うのだろうか。ソ連の失敗は1991年に実証された。米国の失敗も2008年に明らかになったではないか。

何度も言うが、筆者はコミュニストではない。市場で純粋培養されたので、むしろ自然に保守的に流れる性癖が強い。だから意識的に左翼の知見を米国崇拝に流れがちな自らの史観の修正に使うこともある。そうしてみると、日本も漸く自らの経済・金融観を修正すべき時期に来た、という感覚が沸いてくるのだ。

この10年間は、次の10年間への道程に過ぎないような気もする。金融がポスト・モダンを迎えて試行錯誤し始めるのはこれからなのではないか。恐らく我々は漸く新時代への入り口に辿り着いたのだ。市場は「中銀の出口戦略探し」などと言っているが、実は探し当てるべきは出口ではなく新時代への入り口なのではないだろうか。

その入り口を見つけ出し新しい経済像や市場構造を完成させるのは、本誌の読者である皆さんの世代だろう。筆者は、そのポスト・モダンの金融がどんな姿を生み出していくのか、エルンストのように金融史像のコラージュを弄びながら、暫く楽しみに眺めていることにしよう。

(註) 来月より弊誌が週刊・月刊の編成に移行するにあたり、倉都の本コラムは月刊掲載となります。何卒ご了承下さい(編集部)。

2011年6月24日(第248号)