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◆剰余価値から見る現代経済

◆ 経済成長はどう計るべきか

金融資本が牽引する経済の綻びが日本で最初に現在化したのは、データでいえば1990年である。但し、バブル崩壊は企業業績悪化が鮮明になる1993年とする説や、住専・証券・銀行などの金融問題が浮上する1996年とする説もある。まあどこで線を引くかは実務上大きな問題ではない。問題は、その「日本病」が先進国の至る所で蔓延し、その処方箋を書くべきエコノミストらも殆どお手上げ状態であることだろう。日本では2003年頃に輸出持ち直しで日本経済は立ち直ったように見えたが、それははかない幻影であった。

米国も欧州も同じような幻影を何度か見ることになるだろう。2009-2010年に見た光景は、その序曲であったと言えるかもしれない。春ごろにそんな話をしていたら、ある企業の役員から、倉都さんは相変わらず悲観的だねえ、と言われた。だが、私に言わせればその人が非現実的なだけなのである。経済を見る目に楽観・悲観といった座標軸など、ない。あるのは現実的に経済を観察する眼力だけなのだ。その点で言えば、米国の金融当局などもここ数年間「非現実的」な眼鏡で経済を眺めていたとしか思えない。

経済成長とは何だろうか。経済学的にいえば消費や投資・純輸出などで算出される生産水準が高まることなのだろうが、もう少し古典的な考えでいえば資本が剰余価値を生むことだろう。筆者にはむしろこの古典的な解釈の方が判りやすい。儲けのない経済が成長しているとは思えないからだ。

GDPというのは、1930年代のニューディール政策を評価する為に米国で導入された指標であることは周知の通りである。確かにGDPで成長を計測することは便利なのだが、では成長がどういうメカニズムで発生しているのか、或いはどんな成長が理想的なのかをGDPから帰納するのは意外に難しい。消費すれば成長すると短絡的に考えれば、米国流の持続不能の怪しげな経済像が浮かび上がる。投資が増えれば成長すると解釈すれば、中国流のゴーストタウン建設も正当化されてしまう。輸出で稼げば成長するという説の危うさは、日本経済の限界が証明してしまったようなものだ。

やはり「成長とは何か」を考えるには「どのように剰余価値を作り出していくのか」を考えたほうが判りやすい。マルクスの商人資本・産業資本・金融資本の分類における剰余価値の発生過程分析が、150年経ってもそれほど色褪せないのにはちゃんとした理由があるのだ(そんな視点は時代遅れだ、という人が周囲に結構いるのは事実だが)。

筆者が日本経済の行き詰まりを感じてマルクスの「経済学批判」を読み返し始めたのは、丁度この会社を立ち上げた直後であった。もう10年も前のことだ。それは、誰に聞いても日本経済の閉塞性の理由が理解できなかったからである。そこで気付いたのは、日本人はみんな新古典派経済学の視点でしかモノを考えなくなった、ということであった。資本主義を再検討するには資本主義を前提とする思考体系ではダメだ、との直感から、学生時代に読んだ(筈の)マルクスをもう一度読み直そうと思ったのである。

これまで本コラムでもマルクスについては時々言及してきたが、今回は成長の限界というコンテクストに沿って、剰余価値について少し思ったことを書き留めておきたい。

◆ 剰余価値の生まれ方

マルクスは、剰余価値を絶対的なものと相対的なものに分類した。前者は労働時間の延長でもたらされるもの、後者は生産方法の改善によってもたらされるもの、と定義される。よって流通過程において剰余価値が生まれるというのは錯覚だ、とマルクスは言う。それは商人資本の剰余価値造成を否定しているように聞こえるが、フランドルの毛織商人のように商人資本も実は生産過程を持っている。但し産業資本の剰余価値の生み方とは異なるので、その性格に違いが現われるのだ。

商人資本は、剰余価値を生み出すために既存の市場体系・価格体系の維持を必要とするので、保守的になりがちである。一方で産業資本は、剰余価値を生み出すために絶えず生産技術改革や市場開拓などを必要とする為、攻撃的な傾向が強くなる。20世紀以降の経済成長を牽引してきた両資本は、ローマ・クラブが示した「成長の限界」の中でその剰余価値の造成が頭打ちとなってきた。

その壁を破るかのように、金融資本における剰余価値が注目されていったのだ。この金融資本には、商人資本のような保守性と産業資本のような攻撃性の二つが、相互に矛盾するように組み込まれている。勝手な解釈を許して頂ければ、前者は開発金融や中小企業融資、引き受けそしてM&Aなどを扱う資本であり、後者はトレーディングやヘッジファンド運用、金融技術開発などを扱う資本である、と言えようか。

1980年代の日本では不動産担保融資といういわば商人資本的な剰余価値が、2000年代の米国では証券化・投資銀行バブルといった産業資本的な剰余価値が生み出されていった。どちらも債権債務の拡大というハイ・レバレッジであるという意味では共通しているが、剰余価値の生み方においては、商業銀行という古いタイプの戦術拡大という保守的収益と、投資銀行に見られる破壊攻撃的な戦略的収益という差異が見られたと言ってよい。今日の問題は、どちらのタイプの剰余価値も生みにくくなった、ということである。

日本のような保守的な金融資本は、そもそも情報の非対称性つまり金融資本の優位性を剰余価値のベースにしていた感がある。サービス向上による付加価値というのは極めて幻惑的な説明であり、剰余価値の根拠にはなっていない。だがこの分野が市場破壊的になれば自らの存在価値を失ってしまう。

英米流の攻撃的な金融資本は、剰余価値を生むためにはそれ自身を費消せねばならないという自己矛盾に陥り、ある一定の剰余価値水準を乗り越えることが出来ないことが判明した。このタイプの戦略を推し進めてきた金融資本は、自立が可能になるまで縮小過程に入っていかざるを得ないだろう。

そのプロセスは、8月に明らかとなった欧米金融機関で60,000人以上の雇用削減という形で既に現実化し始めている。一言で言えば、金融資本の剰余価値造成の限界は、レバレッジ水準が限界に達したところで明確になったのである。

結局、現代の商人・産業・金融それぞれの資本は、一定の経済時空間の中でパイを奪い合うしかないのだ。マルクスが示唆したように、資本主義は労働者でありかつ消費者でもあるプロレタリアの拡大が無ければ、発達しようがないのである。新興国の経済規模拡大の加速度が落ちれば剰余価値も薄れていく。金融緩和政策でリスク資産価値を浮揚させて成長を取り戻すという米国の考え方が、剰余価値の生成プロセスを全く無視しているのは明白であろう。

剰余価値だけに焦点を当てれば、パイ拡大に限界の見える世界経済は当面ゼロサムゲームである。19世紀末のように植民地主義や帝国主義或いは保護主義といった処方箋を避けながら閉じた空間を打ち破るのは、陳腐ではあるがイノベーションしかない。それは農業や水産業から通

信業や電力業に至るまで同じである。逆説的に言えば、原発事故は日本人への警鐘であると同時に、発想転換への奨励という啓示であったのかもしれない。

円高や人口減少を言い訳に革新への精神を忘れれば、そこで日本の剰余価値創生力が途絶えることになる。国益などという甘い囁きにも耳を傾けるべきではない。労働者全員が単なる労働力提供者ではなく何らかの「価値を生む技術者」になることが必要だ。それが剰余価値を生みながら同時にマルクスの唯物史観から脱出する為の、唯一の方法なのではないだろうか。

2011年9月22日(第003号)