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◆資本主義とアートの接点

◆ テクノロジーとアート

先日、昔の大学仲間三人との定期的な情報交換会で呑んでいた際、一人のコンピュータ・オタクが、ウォルター・アイザックソンの書いた「スティーブ・ジョブズ」に感動したと言って、滔々とその内容について30分余りの独擅場を演じてくれた。趣味の世界を話し出すと止まらない奴なので、暫く喋るままに放っておいたのだが、マッキントッシュには大昔とても世話になったし、アップルの行く末にも興味があるので、大筋は聞き流しながら、時々気になるトピックスを語る時には、箸を置いてその熱弁に聞き入った。

一番面白かったのは、ジョブズ氏が「アート」に極めて敏感であった、というくだりであった。詳細を知るにはその本を読めばよいし、読者は既にご存知のことかもしれない。ここに敢えて記す愚をご海容願いたい。プロダクトにアート性は欠かせない、という点は極めて重要な示唆であり、100%共感する気持ちを隠すことが出来ないのである。

ジョブズ氏のアート重視哲学については、あの衝撃的な「iMac」で十分知れ渡っていることだろう。私は、80年代後半のマッキントッシュにも感銘を受けたが、正直言って「iMac」には完全に度肝を抜かれた。色と言い形と言い、コンピュータとはこういうもの、という視覚的既成概念を完全に破壊したのが「iMac」であった。それは、自動車隆盛時代に画一的モデルのフォードに対抗してGMがデザイナーを採用して新たな車の概念を導入した時よりも、もっと衝撃度が大きかったのではないだろうか。

そのアートへのこだわりは、後の「iPhone」や「iPad」に受け継がれていく。そのデザイン的革新性をここで説明するのは野暮というものだ。因みに、ソニーの「Walkman」に、デザインという発想は無かった。あれは、ソニーには悪いが、機能だけで売れた商品だ。いわば、T型フォードのようなものである。同社の芸術性は、故大賀典雄社長のCD開発あたりが限界だったのかもしれない。

閑話休題。テクノロジーとアートを別物と考えるのは、日本の教育界が「文系」「理系」という不毛の分離システムを採り続けているからではないか、と常々から思っている。画期的なサイクロン掃除機で有名な英国掃除機メーカー設立者のダイソン氏は、古典文学者の家に育った人物だが、羽の無い扇風機を開発したのもこの人である。これもまさにアート・プロダクトの世界だ。

機能重視の日本が開発した先端的製品にはやたらボタンやスウィッチが多いだけで、見た目はあまり芸術的でないものが少なくない。ジョブズ氏が「iPhone」を世に出す時、余計なものは一切付けるなと念押ししたというが、実際に「iPhone」は極めてシンプルである。さらに画面がガラス製というのも革命的である。これもアートへのこだわりだろう。

だが、ジョブズ氏のアート感で最も重要なのは、「マニュアルを作らない」という方針に見えるアート性ではないだろうか。アートとは、ただ眺めたり読んだり聴いたりするものでは無く、五里霧中の中で必死にその作品の意図を読み取るものなのだ。マニュアル無き「iPhone」における文字通りの「手探り感覚」は、中世絵画に潜むイコンを探るような楽しみをジョブズ氏がユーザーに与えたものなのだ、というアート的解釈は、私の勝手な深読みに過ぎないかもしれないが、それでも天才ジョブズ氏ならそれくらいのことは考えていたような気もするのである。

◆ 経済におけるアート論

絵画の世界にはイコノロジー(図像解釈学)という分野がある。丁度3年前に、本誌でも書評コーナーにそんな本を紹介したことがある(BMA189号)ので、記憶力の良い方は思い出されたかもしれない(因みにウェブ会員の方は、簡単にアーカイブから拾ってくることが出来る)。イコノロジーを一言で言えば、作品の奥深く沈む歴史、精神、意識、文化などを幅広く読み取ろうとするアクションである。こじつけのようだが、ジョブズ氏の商品にはそれと似たような楽しみ方があるように思う。

だがそれは「iPhone」や「iPad」に限らず、商品が本来的に持ち合わせている潜在性である。テクノロジーに関わる人は、商品が持つ潜在的な魅力を、ユーザーが引き出せるようにデザインするべきなのだ。逆に言えば、設計者の密やかなアートをユーザーがどのように解釈するのか、といった自由度が無ければ商品には面白みがない。イコノロジーは何かを強制するものではない。それは、資本主義という経済モデルにも当てはまるのではないだろうか。

最近、やたらに「財政再建だけでなく成長路線も必要だ」といった言葉を聞くようになった。ギリシア問題に悩む欧州だけでなく、財政再建が急務となっている日本や米国でも同じような主張が耳に障る。それはあらかじめ分厚いマニュアルを準備しておく、つまらない商品作りのように聞こえる。アート性の微塵もない経済論である。

確かに成長路線が無ければ将来的な財源も無いし、未来が明るくなければ生活水準も上がらないかもしれない。だが「財政再建と経済成長の両立」が簡単にできるなら、誰も苦労はしないのだ。それを可能にするための「魔術」を開発すべきとでも言うのだろうか。それは「高格付けでハイリターンを」という願いを叶える為に編み出された、いかがわしい証券化商品開発と同じではないか。

経済は、マニュアルに書かれたような発展形態は採らない。現代経済学の理論は、自然科学の理論のように過去の膨大なデータ蓄積から演繹されたモデルではなく、よく言えば論理的な思考過程から機能されたもの、悪しざまにそしてやや嫉妬心を加えて言えば、単なる秀才の想像力から浮き出した産物に過ぎない。経済史とは、まさに人間が作り上げたアートの歴史であることを理論経済学者は否定してメシを食っているのだ。アートの理解なしに、経済も金融市場も語れないのが資本主義モデルなのである。

その資本主義は、誰かのマニュアルに沿って変遷し存続してきたのだろうか。答えは否であろう。マルクスのマニュアルは遠い昔に捨てられ、蘇ったかに見えるケインズのマニュアルも再び風前の灯だ。こういう戦略を日本経済は採るべきだ、などという高飛車な設計思想にたいした意味は無い。経済も金融市場も、基本的にはアートの世界なのである。そのアートの中で、経営者や投資家は、自分自身のイコノロジーに基づいて勝利や敗戦を重ねていくしかないのである。

たしかに国債暴落を防ぐには増税や歳出削減による財政再建が必要だ。だがその国債にしても、市場がアートであることを考えれば、単純な暴落説には乗れないところがある。国債という不思議な市場に組み込まれたアートとしての文脈を、力の限り解釈に持ち込まねばならない。「相場を科学する」というのは、そういう意味でなければならない。

どんなに精巧なマニュアルを作っても脱線したり挫折したりするのが経済だが、その反対に、マニュアルが想定していないサプライズのリターンを呼び込むこともあるのも経済だ。資本主義が胚胎するアート性には、敬意を表すべきだろう。逆に言えば、それが将来への夢を育ませるエネルギーなのである。

2012年3月15日(第009号)