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◆資本システム維持への一考察

◆ 量的緩和の臨界点は何処か

今月は、先月の論考の続編である。7月号に記した日英米国債の行方への懸念は、かなり直感的なイメージに基づいたものであった。そのタイミングに客観的或いはアカデミックなアプローチが採れないのは、どこで現状のような金融肥大慢性化の下での経済システムが崩れるのかを推定することが出来ないからだ。

日本国債に関しては、よく個人金融資産の減少との兼ね合いで暴落が語られることが多いが、それもある意味で情緒的な議論でしかない。統計上、どこで危なくなるかという試算など誰にも出来っこないからだ。中銀のバランスシートに関しても、どこが限界点なのかを論理的に示せる人など世界を見渡しても居そうにない。

これは、実験不可能な金融理論や経済学の大きな欠陥でもあるが、だからといって経済物理のようなアプローチや歴史に基づいた推論の方がマシだ、という証明も不可能である。要するに、誰にも現在の金融経済システムの耐用度は解らないのだ。だから、まだ国債は発行できる、日銀はもっと国債を買える、という危ない議論が堂々とまかり通るのである。

筆者の反省を込めて言えば、現代の資本システムは想像以上に堅強である。日銀が銀行券ルールを超えるほどに国債を買い、FRBがバランスシートを3倍に膨らませても、このシステムはまだ危なげなく稼働している。これはある意味で、資本主義が新たな局面へと脱皮していることを示すものかもしれない。マネーをどんなに増刷しても物価上昇を起こさず、むしろ中銀介入による意図的な中長期金利低下によって経済が呼吸し続ける、という「最新型モデル」である。

こういう話をすると、だいたい拒絶反応を起こすのが工学部系の人々である。システム設計やその強度実験を通じて、負荷を増やせば必ずどこかで臨界状態が来ることを実感しているエンジニアは、そんな経済モデルは長続きしない、という。私も実はそう思い続けているので、特にその反応に違和感はないのだが、彼等にしても、実験が不可能な限り、どこまで中銀がマネーを増やせばシステムが崩れ始めるのかを、説得力を持って語ることは出来ない相談なのである。

物理系の人々も同じだ。経済物理学のサークルで、通貨発行量とインフレの関係を統計的に研究していたあるグループは、5年ほど前にあと数年で確実にハイパーインフレが来る、という分析結果を出していたことを思い出す。でも日本はいまだにデフレである。大胆な量的緩和によって大恐慌再来を回避しデフレ入りを防いだ、と燥いでいた米国にも、今やデフレの可能性が囁かれ始めている。

経済システム強度の耐用度は、客観的に測定することも確率的に推定することもほぼ不可能に近い。まだデータの豊富な地震予測の方が、精度が高いのかもしれない。だが地震にしても、4年以内にM7クラスの首都圏直下型地震発生確率が70%と発表して注目を集めた東大の平田教授は、「4年以内に70%というのも30年以内に70%というのも殆ど同じ」と述べて、要するに明日大地震が来てもおかしくないと認識することが重要なのです、と語っていた。無責任な感じもするが、まあそれが結論なのだろう。

結局、現在の経済システムについても同じようなことが言えるのではないか。つまり現実としてまだ中銀には量的緩和の余地があるかもしれないが、一昨年より昨年、昨年より今年の方が、システムの限界へ近付いているのは100%確実であり、要するにいつその閾値を超えてもおかしくないという備えと危機意識を、我々は忘れるべきではないのだ。

だが一方で、この意外に耐久性のありそうな「最新型モデル」を緊急事態或いは異形の経済システムとして軽視・蔑視してよいものか、少々疑問を感じ始めている。資本主義はこれまで様々な局面に直面し、姿を変えることで生き延びてきたからだ。

例えば、英タイムズの編集主幹であるアナトール・カレツキ―氏は、産業革命が起きた18世紀末から21世紀に至る世界経済を4段階に分けて、1760年-1929年までのレッセフェール時代、1930-1979年の政府管理時代、1980-2007年の新自由主義時代、そして2008年以降の政府救済時代、といった区分をしている。この4番目の経済モデルをカレツキー氏は「資本主義4.0」と命名し、新しい時代の到来として記述している(「Capitalism 4.0」より)。

この分類は、実は筆者が12世紀以降の経済システムを「市場化と公有化の反復構造」として見ているイメージと上手く一致する(但しカレツキー氏の超楽観論的な見方には必ずしも同意するものではない)。カレツキー氏は1760年を出発点としているが、筆者はやはりベネチアやフィレンツエ、フランドル地方、ハンザ同盟などの都市国家型経済誕生を、資本システムのスタートに取りたい。

まあそれはいずれどこかで詳説するとして、ここでの問題はカレツキー氏の言う「資本主義4.0」であり、筆者流に言えば「5番目の経済公有化時代」である。表現は違うが、政府や中銀が経済へカンフル剤を打ち続けるという姿に変わりはない。

その持続性或いは耐用性が、純粋に工学的な或いは単純に統計的なアプローチで測れないことは既に述べた通りである。一方、史的分析によればどんな型の経済モデルもいつかは崩壊することが明らかだ。

一つの推論ではあるが、量的緩和がある閾値を超えてシステムが崩壊するというシナリオ以外にも、「市場経済が公有化に耐えかねてシステムが崩れる」といった可能性もあるように思える。カレツキー氏の喩でいえば、政府管理型の資本主義2.0が市場主義の資本主義3.0に移行したのは、スタグフレーションが一つのきっかけであった。ここで市場自身が「どげんかせにゃならん」という意識を復帰させたのである。

先月号でも述べたように、まだ数年間は現在のシステムは維持可能であろう。そこで長期化する低成長に飽き足らなくなった資本が「謀反を起こす」というシナリオも有り得るだろう。いまは眠っているように見える資本は、実は単に爆発へのマグマを溜め込んでいるだけなのかもしれないからだ。

これが他の資本の国債離れを促してDNAを取り戻したマネーが動き出し、資本主義5.0の出現を促す。それが先月号で述べた2020年辺りに起こってもおかしくは無い。むしろ単なる国債暴落ではなく、資本の目覚めによるシステム崩壊という「破壊的創造」の方が、次世代経済を考えるには気が楽なような気がするが、さて皆さんはどう思われるだろうか。

2012年8月16日(第014号)