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◆フランク王国、ラテン通貨同盟、そしてユーロ

ユーロ崩壊説が出回るようになると、人々は過去の類似ケースにその回答を求めようとする。その将来像への参照例となるのは、やはり19世紀半ばに成立した「ラテン通貨同盟」だろう。1866年に発足したこの同盟を主導したのは、ナポレオン3世率いるフランスであった。2年後に加盟したギリシアは40年後に脱退を余儀なくされ、同盟自体も1927年を以って解散している。この例を引き合いに出して、ユーロは崩壊する運命にあるのだ、と悲観論を説く向きも散見されるようになった。

筆者がこのラテン通貨同盟の存在を知ったのは、日大の野口建彦名誉教授から頂戴した「19世紀国際通貨会議の歴史的意義」と題する論文を通じてである。そこには、通常の教科書や歴史書には出てこない19世紀後半の欧州を巡る通貨史、特にフランスを軸とするその通貨会議の顛末が、まさに宝石を散りばめるかのように、詳細に語られていた。

19世紀のまだドイツが統一されていない時代は、何と言っても欧州の座標軸はフランスである。1848年の欧州革命の嵐も、フランス2月革命勃発が起点であった。神聖ローマ帝国という不思議な政治機構や複雑なオーストリアとの関係、そして領邦が勢力を持つ経済像など今一つ掴みどころのないドイツ史と比べれば、中央集権的なフランス史は解りやすい。フランス革命の歴史は、世界史の華である。浪人時代、世界史の予備校教師が池田理代子の「ベルサイユの薔薇」を参考図書に挙げていたことを思い出す。

但し通貨史が歴史の表面上に浮上してくるのは、革命が一段落してルイ・ボナパルトが「ナポレオン3世」として第二帝政を敷いた後のことである。叔父の皇帝と違って歴史上の評価はあまり高くないが、不安定な政情の下で約20年間にわたって大国に君臨した政治家には、やはり何らかの資質があったと見て良いだろう。

当時、フランスの覇権的通貨構想を支持したのがベルギー、イタリア、そしてスイスであった。1848年の欧州諸国での革命が収束し、産業革命の普及によって各国間貿易が急拡大する中で面倒な通貨換算を解消しようとしたのがラテン通貨同盟であった。当時世界最大の経済国であった英国は、その同盟が主軸とする金銀複本位制やフランスの主導権に警戒し、ユーロ誕生の際に見せたと同様の冷徹で合理的な判断から、加盟を拒絶した。

一方まだ統一されていなかったドイツは、プロイセンを中心とする関税同盟を通じた経済圏の形成に重点を置いていた。通貨に関しては1857年に導入されたドイツ通貨同盟を経て、普仏戦争後の1871年にドイツ統一を果たしてその賠償金をもとに1875年に統一通貨が誕生したのである。英国に倣って金本位制への姿勢を強めるドイツは、宿敵フランスを盟主とする金銀複本位制のラテン通貨同盟とは一線を画していた。

一方、フランスはその敗戦で通貨同盟主としての役割が果たせなくなり、通貨の監視機能が働かなくなった、つまり、金銀の含有量を減らして通貨を改悪させる動きを止められなくなったのだ。ドイツの金本位制採用による銀の大量売却は、当時の金銀レートを大きく揺さぶることになったが、フランスはこれを一時的現象と捉えて金銀複本位制に拘ったことも、通貨同盟の寿命を縮めたと見てよいだろう。

ラテン通貨同盟の失敗は通貨管理力の低下が主因と言われることが多いが、経済大国ドイツの不参加も明らかに重要な要因であったように思われる。その後二度にわたる悲惨な戦争を体験した独仏が、漸く歩み寄りを見せて出来上がったのが現在のユーロである。その結晶を簡単に瓦解させるとは思えないが、最近の独仏間に吹く冷たい隙間風は気掛かりだ。ユーロの運命の鍵を

握るのは、やはりこの二国関係次第であると見るべきだろう。

だが、今年の春のフランスの選挙でサルコジ大統領が敗戦し、ドイツへの反感をむき出しにしたホランド氏がその座を奪い取ったことで「メルコジ時代」は終焉した。就任後、新大統領は早速スペイン・イタリア首脳との同盟関係を強化し、ドイツ包囲網をその戦略の礎に置こうとしたが、現代はもはや帝国時代ではなく市場経済の時代である。

独仏間の対立悪化が市場不安を醸成することに気づいて、ホランド大統領はその軌道修正を図ろうとしているが、そのぎくしゃく感が消えることは無い。共同債発行では初めから歩調が揃わず、銀行同盟でも両国の意見は噛み合わない。ギリシア救済に関しても、議論の溝は埋まらないままだ。

これまでどんなに独仏関係が悪化しても、ギリシアが離脱する程度の軽傷で終わり、共同体理念の象徴であるユーロが崩壊するような結論に向かうことはない、と思っていたが、ここまで足並みが乱れたままでその先行きに明るさが見えてこない現状を鑑みると、ユーロ崩壊や分裂の可能性をゼロ近辺に置いておくのは無理かもしれない、と思い始めている。

その懸念に輪を掛けたのが、ECBのドラギ総裁に拠る「OMT」である。独連銀の猛反発を生んだその判断は、「ドイツ離脱」というパンドラの箱を開けてしまったように見える。

勿論、その可能性はまだ相当低い。だがもはやゼロではない。ドイツの離脱は、ユーロの全面崩壊を意味する。弱者連合の通貨統合など、全く意味をなさないからだ。

そもそも、ユーロは「みなさん、政治経済統合をやりましょう」といった綺麗事ではなく、フランスがドイツ統一による恐怖感に駆られてドイツに迫ったものである。ドイツ統一に最後まで執拗に反対したのはミッテラン大統領であった。当初は、ドイツを管轄下に置いていた当事者である米英露も、フランス同様に東西ドイツ統一など不可能と見ていたのである。だがドイツが統一への夢を捨てることは無かった。

米国が理解を示すに至り、英露も賛成に転じてフランスは孤立する。そして最終的に受容するにあたり、ミッテラン大統領が条件として持ち出したのが将来的な共通通貨への統合コミットであった。これを当時のコール首相がやむなく承知したのである。政治統合なしに通貨統合は無理だ、といった経済学者の理屈など、複雑な国際政治の前には何の意味もない。

ユーロが抱える欠陥は、金融機関によるクロスボーダー取引が10年以上かくまってきた。その限界はギリシアで露呈し、その余波がイベリア半島に広がっている。それは独仏の無理筋合意から生まれたものなのだ。それを維持する為の力は、欧州には残っていないのかもしれない。これは、トニー・ジャットの大著「ヨーロッパ戦後史」を読んだ後の正直な読後感である。

傷がより少ないのは、ギリシアとスペイン・ポルトガルの切り離しだろう。独仏連合までひびが入るのは避けたい筈だ。両国の首脳が変わればまた協調関係は復活する可能性もあるからだ。だが、戦後明らかに西洋諸国と異なる経済成長や民主化のプロセスの奇跡を描いてきたこの南欧地域を、同一価値観グループ内に閉じ込めるのは、やはり難しいのかもしれない。

最も難しいのは南欧の一部であるイタリアをどうするかだが、仮にユーロ圏の理念の原型がフランク王国にあるとするならば、欧州人が独仏伊をコアとする考え方を捨てることは、相当に難しいようにも感じられる。

そうは言っても、欧州が「再生エネルギー」の熟成に失敗し、元の通貨に戻るシナリオも、今となっては「想定外」として無視する訳にもいかなくなっている。ナショナリズムの風が吹き始めた中で、欧州は本当に共同体意識を取り戻すことが出来るのだろうか。

2012年11月15日(第017号)