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◆経済学者バブルの開宴

◆ 浜田教授に何が起きたか

安倍政権の誕生に伴い、これまで全くの劣勢にあった「リフレ派学者」が急に息を吹き返している。その先鞭をつけたのが浜田宏一教授(現内閣官房参与)であったことは明らかだろう。金融論の大家に対して敬意を払う人も多いようだが、筆者は「もう一人の暴走老人」と言ってもよいくらいだと思っている。

リフレ派学者はネット右翼と同様に、気に入らない意見に対しては寛容性を持たないで徹底的に批判に回ることが多い。同教授にもそんな印象を抱く。それは安倍首相の態度にも通底するところがある。だから気が合うのかもしれない。

メディアが白川総裁を浜田教授の弟子扱いしているのも、やや不可解なところがある。同総裁は小宮隆太郎のゼミ生であった。浜田教授に何らかの意図があるのだろうか。そんな意味不明の「子弟対決」と呼ばれる紛争には、他にもよく解らないところがある。

30年以上も前のことだが、浜田教授の「金融論」の授業を受けた感想としては、地味な教授という印象だけが残っており、とても政治家と一緒になって他人を罵倒するような人柄には見えなかった。先日、大学の同期会でも同じ話題になったのだが、皆が口を揃えて「内閣府時代に感情を爆発させる何かあったに違いない」という。まあ下衆の勘繰りに過ぎないが、理論的・学究的な憤りというより、個人的な感情の縺れの方が大きいような気がしている。ある友人は、同氏の近著は恨み節の羅列で読む気が失せた、と言っていた。

だが何にせよ、日本を代表する金融理論家でエール大学の名誉教授のお墨付きを貰ったということで、安倍首相と同様にまるでゾンビーのように生き返ったリフレ派学者があちこちで日銀や反リフレ派を罵倒している。浜田教授以外の個別名称を並べ立てることは、本誌の読者には不要だろう。メディアも、やや悪乗りしてこの勢いに拍車を掛けている。参院選までは、或いは世間の期待が希薄化していくまでは、こうしたムードが延々と続くのだろう。

現代の主流派マクロ経済学が深刻な問題を抱え込んでしまったことは周知の通りであり、吉川洋教授が近著「デフレーション」で述べているように、「世間で通用する経済学」は如何にも怪しげな俗論に陥ってしまった。過剰な金融緩和や財政拡大によるリフレ政策を訴える「理論家」や、根拠のない期待感を散布する「政治家」が、そんな理論とも言えぬような論説で日本社会を揺さぶり始めたことを憂慮している。中銀がカネを刷れば豊かさが増す、というのは呪術やお伽話のように思えて仕方がない。

もっとも一方で、デフレや低成長からはもはや脱出不能だと主張するに止まる勢力も、なぜその先の話をしないのか、理解に苦しむ。ゼロ成長でも勝者は生まれるのだ。市場経済の良さはそこにある。むしろ今は、若い世代にどうやったらゼロサムゲームの中で勝者になれるのかを考えさせるべきではないのか。

突き詰めるところ、経済問題はやはり生産性と賃金の議論に収束すべきなのであり、金融はそのサポート手段に止まるべきなのだ。読者の中には安倍政権の施策を高く評価する方もおられようが、筆者にはあまりに論理性に欠けるところが、納得いかないのだ。

自分に都合の良い説を説く特定の経済学者の主張だけを信奉し、それしか正解は無いのだ、と思い込んでいる安倍首相はまさにピエロである。それは首相の資質の問題ではあるが、自分が唯一正しいと思い込んでいるマクロ経済学者にも罪が無いとは言えまい。それは「我々は神の仕事をしている」と言って失笑を買った、どこかの投資銀行のCEOと同じようなものである。

筆者はいま、2007年のサブプライム問題を引き起こした投資銀行の欠陥と似たような精神構造を、こうした経済学者の中に見ている。今後起こり得るのは「投資銀行バブルの終焉」ならぬ「経済学者バブルの終焉」なのかもしれない。前述した吉川教授の著書が解毒剤になる日の到来を祈るしかない。

◆ マクロモデルの限界

やや話は逸れるが、マクロ経済には動学的モデルが利用される。政府機関や中央銀行も、独自のモデルを使ったマクロ経済予測を行い、外部要素の攪乱で生産がどう変化するかを予想したりする。現在、世界的にポピュラーなものは、「動学的確率的一般均衡モデル」(DSGE:Dynamic Stochastic General Equilibrium)と呼ばれるものだ。確か、FRBもこのモデルを使っている筈である。

だがこの最新鋭のモデルに対し、MITのロバート・ソロー教授や元財務長官のラリー・サマーズ教授らが「役立たず」とこき下ろしている。ソロー教授はそのあまりに単純化された体系を、サマーズ教授は危機対応に無力な点を、それぞれ批判している。完璧な経済モデルなどない。だからこそ、マクロ経済はその認識の限界を知るべきなのだ。神は一人ではない。

特にこれまでのマクロ経済学は、金融システムを内部変数として重要視していないことが問題視されている。それは、先般英国のエコノミスト誌が指摘していた通りである。マクロ経済を学習された方はご存じの通りだが、かの学問は、銀行を「預金者と借り手の導管」としか考えていないのである。攪乱要因は、原油価格高騰や戦争など、ほぼ外部要因に限定されている。

だがサブプライム問題は、経済システムの内部にある金融機関のバランスシートから起きたものだ。これは、マクロ経済学者の視野の外であった。米国の金融危機を正確に把握したのが主流派マクロ経済学者ではなかった理由には、こうした背景がある、と言っても良いだろう。モデルの失敗は、CDOの格付けで大失態を犯した格付け機関でも実証された。リフレ論を聞いていると、彼等の想定経済モデルから金融機関と資本市場への意識がスッポリと抜け落ちているのに気付く。

先般、2007年の米FOMC議事録が公開されたが、その中で同国金融当局者の殆どが、イエレン副議長(当時はSF連銀総裁)を除き、住宅市場と金融問題を完全に過小評価していたことが浮き彫りになった。彼等が足許で膨らんでいた投資銀行による過大なレバレッジのリスクを看過していたのと同じように、日本のリフレ論者らも自己資本の9倍以上にまで国債保有を積み上げた邦銀のリスクを全く考慮していないようにも見える。

国債市場はいずれ暴落するのだからそれまでどんどん増発してみればよい、という逆説的でやや乱暴な意見もある。日銀が無制限に購入するのだから暴落は有り得ない、という議論もある。だが市場に何が起きるのかを正確に予想することは誰にも不可能なのだ。まさにモデルから演繹する思考法の限界である。謙虚さのない学問は破滅的である。

将棋の羽生名人は、勝負とはあらゆる最悪のシナリオを想定しながら次の一手を打つことです、と述べている。人は彼を「悲観論者」とは呼ばないだろう。それこそが勝負の現実主義者である。市場経済も、本来はそういう認識社会であるべきなのである。

2013年2月21日(第020号)