HOME > 過去の対談

◆ ある大学院のゼミ対談 その1

今回の対談記録は、編集人の何冊かの著書をテキストにしている、ある大学院のゼミに編集人が招かれて講演を行った後に、教官や院生・学生らとフリーディスカッションを行った際の「雑談的」な記録です。先方から、講演以外の部分のテープ録音を公開することに応じて頂きましたので、弊誌に掲載することと致しました。

(教官)倉都さんの本は「金融史がわかれば世界がわかる」や「金融VS.国家」「投資銀行バブルの終焉」などをゼミのサブテキストに使わせて頂きました。中でも金融史への言及は他の類書には無い新鮮さを感じましたが、金融実務家になぜ「金融史」が重要だと思ったのか、という点からお聞きしたいと思います。

(倉都)最初に金融にも歴史観が必要だと思ったのは、1983年にロンドンでスワップ取引を目の前で見たときでした。取引の中身は現在価値という観点から自力で何とか解るのですが、何故こういう取引が生まれたのかは頭で考えても解らない。市場の成立も同じで、なぜユーロ債市場が生まれたのかは、先達に聞いたり書物を紐解いたりしてみないと解らない。起源が解らないと不安で仕方が無い(笑)。金融はある意味で社会学なんだな、と思ったのがその起点です。

(学生A)過去を学ぶという意味では、株や為替など相場のチャート分析と似たところがありますね。

(倉都)そう。でも過去から将来を類推することには限界があります。チャートを見ていてもドル円が70円台に定着することなど予想できませんからね。金融史を学んだからといって、将来がはっきり見える訳ではないから。ただ、歴史を知らないまま現在や将来を無責任に語るような危険からは身を守れる、という意味はあると思います。

(学生B)金融史の知識が実際に何か役に立ったことはありますか。

(倉都)「投資銀行バブルの終焉」なんて本も、金融史の一つの収穫かもしれません。そのタイトルは出版社が付けたんだけど。私の案は「投資銀行バブルへの鎮魂歌」でした。でもそれじゃ「売れない」と言われて(笑)。英国マーチャントバンクや米国インベストメントバンクの歴史は、それ自体興味深い対象だけど、同時にその収益力の可能性や限界も見えてくる。21世紀に入ってからの過去最高利益の更新継続は極めて不自然であり、持続不能性を思わせるものでした。その疑念が米国金融モデルへの不信感に繋がったのでした。また、今春皆さんと一緒に出たテレビ番組で「ドルの下落トレンドはそんなに簡単に反転しない」と話した相場観の根底にも、史観の影響があります。

(教官)「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といったのはビスマルクでしたね。

(倉都)そうですね。歴史を見ると同じような繰り返しに出会うこともあります。マルクスは、ヘーゲルが「偉大な史的事実と史的人物は二度現われる」と言ったのに対して「一度目は偉大な悲劇として、二度目は惨めな笑劇として」と付け加えました。こういう見方も、金融では必要だと思います。銀行はそういう教育をしないので、もし金融への就職に興味があるなら学生時代に学んだほうが良いでしょうね。バブル崩壊やソブリン・デフォルトなど、市場は悲惨な状況を何度も繰り返してきましたし。もっとも、これからも同じ愚行を反復するのかもしれませんが。

(教官)最近の欧州の債務問題などにもそういう雰囲気がありますね。

(倉都)ギリシアに代表される債務問題など1980年代の累積債務問題と相似形でしょう。あの時代の債務再編手法は今でも有効ですが、まさに先進国は「This Time is Different」などと言いながら、金融史を無視した処方箋を描こうとした。全く納得いかない対処療法ですね。米国も1980年代に警戒された「双子の赤字」という弱点を放置し続けています。経常赤字の放置が不均衡問題を引き起こしてリーマン・ショックの呼び水となり、財政赤字の放置が、格下げへの導火線となっているのです。ギリシアもある意味では財政赤字と経常赤字の双子の赤字問題なので、この二つの国はよく似ていると言えます。

(学生C)日本で気になる「金融史観の欠如」はありますか。

(倉都)銀行問題ですね。歴史的になぜ銀行という存在が生まれたのか、という原点をいま日本は忘れつつあります。資金需要があるから銀行が必要なのであって、いまはお金が余って銀行が「運用会社」化しています。これは本末転倒というべきで、銀行の在り方を変えなければ再び銀行問題が日本経済の暗雲の中心的存在になるかもしれない、と思っています。

(教官)銀行は学生の就職にとっても大きな問題ですが、それはまた別の機会に話して貰いましょう(笑)。次の質問なのですが、倉都さんは以前にカオスなど複雑系の金融への応用を積極的に提唱されていた記憶が有ります。最近はあまり発言されていませんし、書籍にもあまり言及が無いようですが。

(倉都)複雑系に関して興味を失った訳ではありません。ただ現実的に経済や市場に対して何が言えるのか、という疑問がどうしても解けない。複雑系を語った「相場予測モデル」は、何度か検証に立ち会いましたが、実際には従来の統計モデルに毛の生えたようなもので、複雑系ソルーションとは言い難いものが殆どでした。また経済物理学者らによるアカデミックな議論も、リスク管理や政策への提言というレベルにまでは昇華しえなかったように思います。

(学生D)それでも金融危機前後には、マンデルブローの「禁断の市場」やブックステーバーの「市場リスク暴落は必然か」、タレブの「ブラック・スワン」などが日本でもベストセラーになりました。私もこれらの本に興味があって読みましたが、大変新鮮に思いました。そうした考え方は、リスク管理の新たな土台になるのではないですか。

(倉都)ブックステーバーの本には出版社から依頼されて私が解説を書きましたが、こうした本が評価されたのは確かに大きな前進だったと思います。私が1997年に世界の複雑系論者に先駆けて書いた「リスク再考」は1,000部くらいしか売れなかったけど(笑)。ただ複雑系を市場や経済に適応してみても、何か結果論のようなところがあって、先見性・予見性という意味では理解されにくいところがあります。リーマン・ショックなども、別に複雑系を勉強していたから予想できた、とは言えません。むしろルービニ教授やシラー教授、ラジャン教授らのように経済構造を深く掘り下げて吟味していた人々の分析力のほうに私は軍配を上げます。

(学生B)でも「ブラック・スワン」という言葉は社会で大きく採り上げられましたし、経済や市場への新しい見方という捉え方が出来るのではないかと思いますが。

(倉都)1980年代から複雑系を勉強してきた身からすれば、決して「新しい見方」とは言えないと思います。むしろ社会が複雑系的な見方に気付くのが遅かったというのが正直な印象ですね。これは最近の持論でもあるのですが、社会が市場経済というそもそも複雑系的な構造にあまりに鈍感なのです。経済学者も合理的期待仮説に嵌まり込んでしまいましたし、金融市場も均衡論や予定調和説に囚われてきた感じがします。メディアもそうです。

(教官)倉都さんは我々経済学者に厳しいからね(笑)。

(倉都)いえ、批判しているのはマクロ系の経済学者だけで、実証分析などは私も興味ある分野なので、すべて経済学が変だと言っているのではないのですけれど。

(学生A)マクロ経済学も低迷する経済に対して責任がある、ということですか。

(倉都)前に日経ヴェリタスにも書いたのですが、「経済学は第三の危機」を迎えているといって良いと思います。ショーン・ロビンソンが言った言葉ですが、第一の危機は失業問題を解決できなかった1920年代、そして第二の危機はインフレや南北問題を解決できなかった1970年代、という文脈からすると、現代は立派な「第三の危機」だと思いますよ。リーマン・ショックを引き起こし、その後の処方箋も書けない訳ですから。

(教官)経済学が苦しんでいるのは事実ですが、学生にはきちんと経済構造を学び、経済政策の意味や市場の役割などを理解して貰う必要がある。原論としては、新古典派経済学だけでなくマルクスなども少しかじっておいた方が良いと思う。倉都さんは先ほど社会学と言ったけれど、数式ばかりの経済や金融ではバランスを欠くのは事実だ。

(学生D)倉都さんは学生時代にどんな本を読んでいましたか。私は銀行志望なのですが、お勧めの本とかありますか。

(倉都)それが一番辛い質問(笑)。音楽に熱中していて真面目な経済学部生ではなかったのでね。仄かに印象に残っているのはガルブレイスの「ゆたかな社会」とマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」です。先生の言われたマルクスは、資本論の第一章で挫折したので、10年ほど前にきちんと読み直しました。実に含蓄の多い本で実に勉強になります。銀行志望だから、といって特にお勧めはないのですが、敢えていえばカール・ポラニーの「大転換」やキンドルバーガーの「熱狂、恐慌、崩壊」などはこれからの金融・経済を考える上には参考になる良い本だと思います。でもやっぱり学生時代は古典に限りますよね。金融とは直接関係無いけど、ゲーテの「ファウスト」なんか、最近の金融政策への痛烈な批判に繋がるようなところもあって、面白いですよ。書店のベストセラーの棚に並んでいる本は、あまり役に立たないと思います(笑)。